「ドクトル・ジバゴ」によせて

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 「ドクトル・ジバゴ」に見るあの美しさは、活動期を過ぎ、終わりを迎えようとする物語が持っている美しさである。

 主人公ユーリー・ジバゴは自己の思想に忠実に生きようとする。それは、いつの時代にあっても光を放つ人間の特質である。彼は、正しい道を歩もうとする心を持っている。



 ラーラはそのジバゴの生き方の理解者であり、恋人である。ジバゴとラーラが惹かれあい求めあう場面は美しい。パステルナークはしかし、その二人の生き方を少し距離をおいて見つめている。ロシア革命は二人の運命に激しく襲いかかる。それはまるで嵐に翻弄される海原の木の葉のようである。この物語を「反革命的」とする見方もあるが、そうだろうか?


 かつて、ロマン・ロランはこう書いている。「1905年の論文でレーニンが書いたように、階級的社会に私たちが生きている限り、あらゆる知性の表現に階級的でない見地はない。またありえない。文学が望むと否とにかかわらず、文学は社会闘争の利害と情熱に関係するもので、一階級の影響から自由ではないし、自由ではありえないのである。・・・彼らの思想の河が豊富であればあるほど、過去と未来の流れは、しばしば反対の流れが混じり、あるいは衝突するのを見る。彼らはその世紀の鏡である」(ロマン・ロラン全集)


 ジバゴとラーラの美しさは滅びゆくものたちの美しさである。人々はボリシェビキの思想に導かれて突き進んでいる。医師であり詩人であるユーリー・ジバゴは知性の人でもある。その知性が詩のことばとなった表現されたとき、多くの人びとにとっては異端として映るのである。パステルナークのペンはそれを隠さずに描いている。


 青く澄んだ空に木の葉が高く風に揺れている。映画「ドクトル・ジバゴ」の冒頭のシーンは悲しい美しさをたたえ、胸をしめつける。この物語は、滅びゆくものの哀しさと、それとともにまた、バラライカを背に進んでゆく少女のなかに、生まれようとするものの強さをも見せている。
 




# by hara-yasuhisa | 2019-02-16 14:28 | Comments(0)

ハノイ(ha noi) にて

 
 はじめての海外ひとり旅、ハノイに行った理由はふたつだった。
 ひとつは、『戦争の悲しみ』の作者、バオ・ニン(bao ninh)に逢うため。逢えれば、リアリズム論を話したかった。
 もうひとつは、社会主義をめざして独自の国づくりをすすめているベトナムの首都、そこに生きる市井の人たちと接し、話したかった。

 そのふたつを実現できた。不安とスリルの連続する旅だったが、やはり旅はひとりがいい。ぼくが今回ハノイで得たもの、それはとても大きなものだった。
 これが異文化というものなんだろうと、ハノイの街で体験したことを、忘れないうちに書きとめておくことにする。

22年ぶりの飛行機
 
 VietnamAirlines(ベトナムエアーライン)の飛行機はさほど大きくない飛行機だが、考えてみると96年の正月に沖縄に飛んで以来の飛行機だから、22年ぶりだ。座席は前後も左右も狭すぎ、窮屈このうえない。

 それにしても、実際に搭乗するまでの手続きの煩雑なこと。関空のロビーは人びとの群れでごった返していたが、知り合いとてだれもいず、いったいどこで何をしていいのかが分からない。
 「ぼくは、これから、どこでどんな手続きをすればいいのか」と、制服(何の制服かは分からない)を着た女性に尋ねた。女性は丁寧に教えてくれた。ここは日本語で通じた。まあ、あとのことになるが、ハノイでは大変だった。

孤高の作家、バオ・ニン

 バオ・ニンについて少しふれておこう。
 小説『戦争の悲しみ』が日本語に翻訳され、それを読んだときにすぐ思ったことが、この作者にぜひ逢いたいということだった。いまから20年前のことだ。

 それまで、ぼくの中でリアリズム文学の最高傑作は、ショーロホフのあの『静かなドン』だった。いつかショーロホフに逢いに行こうと、そのときもそう思った。しかし、彼はその後、スターリンの弾圧下で心ならずもリアリズムの立場を捨ててしまった。そうして、比較的早くにこの世を去った。

 ベトナム戦争が激しく戦われていた1969年、バオ・ニンは高校を出て北ベトナム正規軍に入隊する。彼が17歳のときだ。
 そして、彼が所属する500人の師団は、ベトナム中部高原のジャングルでアメリカとの激烈な戦闘に巻き込まれた。この地獄の戦闘で生き残ったは、彼を含むわずか10人だった。まだ若いバオ・ニンは490人の仲間の命が次つぎにつぶされてゆくのを目の当たりにしたという。
 
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 ハノイの郊外、高層住宅の7階にバオ・ニンの住まいはあった。通訳のフォンさんが、「バオ・ニンさんはベトナムではとっても有名、すごく有名な人。普通は会えない人です。どうして自宅に来いというのか私には分からない。緊張してうまく通訳できないかも。原さん、難しいことばを使わないでね」と、そんなことをくり返しタクシーのなかで言うのだった。

 奥さんが玄関のドアを開けてくれた。応接間に招き入れられてしばらくすると、隣の部屋のドアが開き、白髪のバオ・ニンが現れた。ぼくが笑顔で「こんにちは」というと、彼は両手を広げ、差し出したぼくの手を強く握って揺さぶった。
 歳はぼくよりひとつ下だが、顔には深いしわがある。彼の体には銃弾の痕がいくつもあるはずだ。あのベトナム戦争を戦いぬいてきた歴戦の人を目の前にして、深い感慨がぼくを包んだ。


 あの日、1975年4月30日の早朝、彼の部隊(北ベトナム正規軍)はタンソニュット空港での銃撃戦を突破して、サイゴン(いまのホーチミン)市内へと流れ込んだ。その生々しい一部始終が小説には描かれている。

 ぼくは、なぜ日本からあなたに逢いに来たのかを話した。フォンさんの通訳をじっと聞きながら、バオ・ニンはときおり笑みを浮かべたりした。

 ぼくは、「ぼくとあなたとは歳がひとつしか違わないが、同じアメリカ帝国主義とのたたかいでも、あなたはジャングルの中で生死の賭けた戦争をしていた。そしてあの4月30日、あのサイゴンにいた。あの日、ぼくはテレビのニュースを見ながら気がつくと涙が溢れだしていた。あなたはその後、『戦争の悲しみ』を書き、世界中が注目した。それを読んだぼくが一番に感じたのは、ショーロホフを超える作品が出てきたということだった。それを思うと夜も眠れなかった。だから、なにも話せなくてもいい、あなたに逢ってそのささくれだった手を握るだけでいいと思っていた。その20年来の願いがいま実現した」と、そう彼に言った。

 聞き終えると、彼はまた僕に握手を求めて手を差し出してきた。フォンさんは時間をかけて通訳していた。奥さんが持ってきたお茶をすすめながら、彼は話をはじめた。

 「わたしはいまベトナム作家協会の仕事をしているが、協会には必要なときに出向くだけで、毎日ここで執筆している。海外からの招きもあるので年に1・2度は出かけている。日本には2回行った。広島や京都にまた行きたいと思っている」

 「わたしのものだけでなく、他のベトナムの作品も読んでほしい。そうすれば、いまのベトナムのことがよく分かると思う。戦争の時代には戦争の時代の文学があったが、いまは新しい時代を書かないといけない」

 こんな話から彼との対話がはじまったのだが、通訳を介しての話のやりとりだから時間はすぐに過ぎていった。一時間ほど過ぎ、ぼくはお土産を持ってきたと、和歌山県の日本酒を差し出した。開けて見てくださいというと、彼はその場で包み紙を破り日本酒を取り出して笑みを浮かべた。そうして、「クァモン、クァモン(ありがとう)」を連発した。大の日本酒ファンらしく、目を細めて手にとって瓶を眺めていた。

 別れ際、彼はエレベーターまでぼくとフォンさんを見送ってくれた。ぼくらは最後の握手を交わした。

イェンさんのおかげ

 実は、彼と逢うにあたっては、そのために奔走してくれた陰の人物がいる。バオ・ニンは僕が思っているほど簡単に会える人物ではなかった。「孤高の作家」とベトナムの文学界で呼ばれていること、それをぼくも知らないわけではなかった。なかなか人とは会いたがらないことで有名らしい。その彼を説得してくれたのは、ハノイから遠く、南のホーチミン市で暮らしているイェンさんという女性だ。知り合いなど誰もいないぼくに、フォンさんという通訳を紹介してくれたのもイェンさんだ。

 イェンさんとは偶然ネットで知り合った。
 通訳を探してネットを見ていて彼女のサイトに行きあたった。やっと見つけた、とにかくメールをしなくっちゃと、ぼくは急いで依頼の内容を書き送った。ところが、よくよく見ると、住所がホーチミン市とある。あ、これはアカンわ。遠すぎるわと思い、お詫びのメールを入れようとしていた、その矢先に、イェンさんからの返信があった。

 わたしが行きたいが遠くて費用もかさむので、ハノイに住んでいる友だちに原さんの依頼内容を伝えたら、彼女がやってもいいと引き受けたと、そう書かれていた。
 あとで、フォンさんから教えられたことだが、イェンさんはハノイにあるベトナム作家協会に電話をして、バオ・ニンの携帯番号を聞き出してくれた。しかし、かけてもかけても、なかなか電話がつながらなかったという。そうして、やっとのことで話ができ、ぼくとの面談をセットするところまで交渉してくれたのだった。ただただ感謝である。

ハノイの社会主義

 にぎわっている、などという言葉ではいい表せないほどのにぎわいである。
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 いったいどこからこれだけのおびただしい人びとの群れが出てくるのか、とにかく若い人びとで活気に満ち満ちている。それをフォンさんにいうと、彼女は、東京の方が人が多いでしょうと反論した。

 ぼくは、東京に来れば分かるよ。人は多いかもしれないけどこんな活気はない。道行く人たちは黙って歩いている。それにここはどうだ、バイクの人も、歩いてる人も、通りに座っている人たちも(通りに腰かけて食べたり飲んだりしている市民の多いこと)、みんな口々に何かを喋っている。ハノイ中どこへ行ったもそうだと、ぼくは彼女にいった。

 すると彼女は、これが当たり前だから、別におかしくはない。ホーさま(ホーチミン)はいつも、国民は心をひとつにしなければいけないと、言っていたらしい。両親からいつもそう聞かされて育った。
 「悪いひとはいないのか」と聞くと、「たまにはいるけどね。ヤクザもいないよ。ハノイで犯罪がおきることはほとんどないよ」という。

 社会主義をめざしているベトナムをどう思うかを聞いてみた。「難しいことは分からないけど、ベトナムが好きだ。けど、日本と比べるとぜんぶ遅れているから、ぜひ日本に行ってみたい。東京の街を歩いてみたい。ホーさまやホーさまの仲間(政府の人びと)がやっていることは信頼している」と、フォンさん。

 彼女の話では、日本語を学ぶ子どもがうんと増えている。韓国語も人気がある。日本と韓国はブームになっているという。
 「原さんは中国が好きか?」と聞いてきた。ぼくは、特別好きではないし特別嫌いでもない」というと、彼女は「私は嫌いだ」という。訳を聞くと、態度がでかいし騒がしいからだという。

 ホーチミン廟の広場でトイレに行きたいとフォンさんにいうと、あそこだと指さしてくれた。そこに行き入ろうとすると、横の事務所の窓から女性が顔を出して何か言ってきた。よくよく聞いているとお金を要求しているのだ。あ、そうだ、公衆トイレは有料なんだと気づいた。フォンさんをふり返ると、財布をもって走ってくるところで、入ってくださいと手ぶりで合図する。

 トイレの個室に入ると、「えっ、紙がないやんか」と、つい声に出してしまった。紙がない。また事務所にもどって、「no paper」というと、窓口の女性はそこにあるよと指をさす。見ると、箱の中に無造作に紙が置かれている。

 用を終え、フォンさんに紙のことをいうと、笑いながら「ゴメンゴメン、言うの忘れた」という。ベトナムでは公衆トイレは有料らしく、それにお尻を拭いた紙をそのまま水に流してはいけない。便器の横に入れ物があって、そこに入れておくのだという。これにはなんとも驚いた。時空を超えて、平安時代の宮中にもどったような風情で、まことに面白かった。

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(通訳をしてくれたフォンさん)

 ちゃんと当局に言って、観光客がいっぱい来るホーチミン廟の公衆トイレくらいはお金や紙のことで観光客を悩まさないようにしてよ、そう注文をつけた。彼女は笑って首をすくめた。

 当局といえば、中国には自由がないという話になり、ベトナムでも中国と似たところがあるという。「えっ、ベトナムにも自由がないの?」と聞き返すと、彼女はうなずいた。当局の悪口を言ったら目をつけられるから、あまり言えないという。これはほんとに意外な話だったが、彼女は少しも不満に思っていない、どうってことないという様子だった。

 そういえば、バスの中で偶然目が会った青年男性に、「ベトナムに初めて来た」と話しかけると、彼は次のようなことを言った。
 「ベトナムは社会主義の国です。だけど、まだ経済がうまく発展していません。日本は急激に経済が伸びた国(手でジェスチャーをしながら)ですが、ベトナムはまだまだです。おカネをかけて大学を卒業してもなかなか仕事がないです。(外を指差しながら)あんな風にバイクの運転手でもしないと生きてゆけない。みんな日本や韓国にいけば仕事があって、高い給料がもらえると考えて、それで日本に行きたがるんです。もっと社会主義の経済が伸びればいいんだけどね」と、彼はこれを日本語で言った。なかなかの高学歴という感じだった。

 ぼくが、「まだ社会主義をめざしている段階ですね」というと、彼は「そうですね」と答えた。彼は観光関係の会社で働いているとのことだった。

 街を歩いていると、いろんな公園や広場に銅像が立っていた。ある公園に大きなレーニンの銅像があったのでフォンさんに「あれはだれですか?」というと、「レーニンです」と即答した。
 ホーチミン廟で、ホーチミンが使っていた部屋の壁に二人の男性の顔写真が飾ってあった。ぼくが「ここにもレーニンがいた」というと、フォンさんは「左の人は知らないなあ」という。「えっ、知らないの?」と聞き返すと、知らないという。「あれがマルクスだよ」というと、「マ・ル・ク・ス」とフォンさんはいった。彼女はレーニンは知っていたが、マルクスは知らない様子だった。


フォンさん
 
 最初の日、ホテルのロビーになかなかフォンさんはやってこなかった。それで、
today's my guide named Phuong comes to meet me soon, tell her if she comes here, i'm sitting overe there と、ぼくはフロントの女性に少し離れた食堂のテーブルを指さして言った。
 だけど、この英語が通じなかった。彼女は i don't know English と言って、手を横に振った。旅の間、こんな片言の英語のやりとりばかりで、いま思えば笑ってしまう。が、そのときは必死だった。

 そうかと思えば、これもこのホテルでのことだが、where is the restroom? と、通りがかった知らない女性に言い、日本語で「また分かりませんて言われるんかんあ」とつぶやくと、「あそこを曲がったところです」と日本語で返ってきた。「日本語がお上手ですね」というと、わたし日本人ですから、と。もう11年もハノイにいて、ホテルの地下でバーを経営しているのだという。

 ハノイは治安がとてもいいと現地の男性にいうと、彼は「ハノイにマフィアはいないよ。最大のマフィアは警察だ。とにかく賄賂を要求するからな。賄賂さえ出せばたいていのことは許してくれる。だから、ここの警察官は賄賂で裕福なんだ」と真面目な顔で言った。

 フォンさんに真偽のほどを確かめると、それはみんな知っていることだと教えてくれた。そんなことでいいのかというと、それで丸く治まるんだからいいんだと。「わたしも無免許でバイクに乗って捕まったけど、いつもそれで解決した」と、涼しい顔をしている。この大らかさ、ベトナムの顔、ベトナムの匂いの社会主義の国づくりがそこにあった。
 
 長くなった。
 まだまだ面白い、また書きにくいこともたくさんあるのだが、この辺りで終えよう。フォンさん、イェンさん、バオ・ニンさん、ホテルの人たち、バーのママさん、バスの男性・・・多彩な人たちと出逢い、知り合いになった。みんな素晴らしい仲間だと心から思った。

 最後の別れの夜、フォンさんは目に涙をためていた。不覚にもぼくの目から涙がこぼれた。ホテルのロビー、彼女は急にぼくをハグし、耳元で言った。「また来てくださいね。こんどはイェンさんと3人で会いましょう」
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     (ハノイっ子の憩いの場・ホアンキエム湖)







# by hara-yasuhisa | 2018-11-30 19:29 | Comments(0)

一握りの砂も

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  一握りの砂も
  一滴の水も
  ぜーんぶわれわれのものだ
  地球の裏側から来たアメリカは
  ぬするれいびんど
  泥棒だ
  だからみんな団結しよう

  カメジローの
  あの演説が
”被告人瀬長の口を封じることができても
  虐げられた幾万大衆の口を封じることはできない”
  あの声が響いてくるようだ
  カチャーシーに舞うデニーは
  たたかう人々のこころに
  焼きついた
  
  





# by hara-yasuhisa | 2018-10-02 20:18 | Comments(0)

きのうの夕刻

 きのうの夕刻のこと。

 和歌山からの帰りみち、いつも通り印南のパーキングに立ち寄った。ここに立ち寄るのは大体は夕刻。いつもの店の前に行くと、おばさんがひとり前に立っていて、店は閉まっていた。

 ガラスドアの貼り紙に、「停電のため臨時休業します」とある。
おばさんが、「ついさっき電気来たんやけどな、ほんまに5分ほど前やさか、まだあかんね」と説明してくれた。

 「そやけどトイレは来てるでえ」というと、「ああ、そこは高速道路の会社やからな、自前の電気あるんや」と山手にある外部電源を指差した。「こあなん家にもあったら便利やのになあ」と笑うと、おばさんは「ほんまや、悪いことばっかりせんと、こあなんをちゃんとして欲しいわ」という。

 南海トラフ地震では、和歌山県は全国2位で約80,000人が亡くなるとの予想だ。そして南紀州に集中している。高速のパーキングで可能なら、各地の避難所でも独自の電力設備を設けることを考えれられるのではないかと、おばさんとそんな話になった。
 
 

# by hara-yasuhisa | 2018-09-08 15:42 | Comments(0)

蝉しぐれのころ

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ふくは尼になる前にひと目逢いたいと、次の文をしたため、文四郎を呼び出した。



一筆申しあげ候。わが子千代丸、縁あって深きお家のあと継ぎとして、養子縁組相整い、安堵いたしおり候。


さて、大殿様、一周忌をひかえ、浮世の思い患い断ち切るべく、わたくしこの秋、白蓮院に入り尼になることと相決め候。さりながら、今生の未練と存じ候えども、貴方様にひと目お会いいたしたく、本日、箕浦(みのうら)にまかり越し候。


もし、お目もじかない候わば無情の喜びにて候えども、決して、ご無理申す義にてはこれなく候。万が一つの幸いを頼みに、この文参らせ候。




文四郎はふくが待つ屋敷へと馬を走らせた。 ふくは、「文四郎様のお子が私の子で、私の子が文四郎様のお子である道はなかったのでしょうか」と文四郎に問う。二人が結婚する道はなかったのでしょうかと、そう問うたのだった。



青春のとき以上の女の美しさをたたえたふくが、まっすぐに文四郎を見つめていた。 文四郎は、「そうすることができなかったのが、それがしの生涯の悔いです」と言い、二人は初めて互いの気持ちをことばにした。『蝉しぐれ』(藤沢周平)の最後の逢瀬の場面だ。



藤沢作品の中でも『蝉しぐれ』はもっとも人気のある作品のひとつで、映画にもなり、TVドラマにもなった。題名のとおり、物語の随所に蝉しぐれが登場する。



文四郎とふくは別れる。その印象的なラストシーンにも作者はしぐれのように降りそそぐ蝉の鳴き声を描いている。それは、張り裂けそうな二人の心の叫びでもあり、また二人への鎮魂の歌ででもあったのだろう。








# by hara-yasuhisa | 2018-06-06 15:40 | Comments(0)

人びとの住む山村

 

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 紀伊半島の深山に分け入ると、古代からの人びとの暮らしぶりを偲ばせるさまざまな遺跡に出遭う。山奥に走る林道をゆくと、ときに驚くような古い時代のものを目にする。その一つに苔むした石垣がある。いったいこんな石垣がこんな山奥になぜ・・・と、思わず車をおりてしばしたたずむことがよくある。



 家を囲んでいる石垣、集落全体を囲んでいる石垣、広く田畑を囲んでいる石垣、さらには新宮市にあるような山から山へと100キロも延びている石垣もある。想像を絶する人びとの労働がそこに投じられている。後世の人はそれを「猪垣」(ししがき)と名づけたりする。



 この半島にはいまも大型の動物が生息している。熊、猪、鹿、日本カモシカなどがいるし、さらには明治時代の後半まで狼が熊野の深山を駆けめぐっていた。人びとは古くからずっと獣害に悩まされてきたようで、各地に猪や鹿に農作物が荒らされた記録が残っている。が、その時代には猪や鹿の前に狼が立ちはだかっていた。



その狼が消えて100年が過ぎる。さらに人びとの暮らしが山奥から消え、山は荒れ、耕作放棄地が放置され、石垣も人の手が入れられないまま風雨にさらされている。人びとが野生動物の世界に入り込んだために生じた摩擦は減っているはずなのに、獣害は広がる一方である。



だからということで、もういちど狼を山に放とうと真面目に主張する人びともいる。野生動物の天敵を山に放とうというのだ。かつて、人びとは森や林を切り拓き深山へと入って行った。逆にいま、それらの山から人びとが後退しつづけ、そこに動物たちが押し寄せてきている。



農林漁業を切りすてる政治の果てに、山村では暮らせずに人びとが消え生態系が壊れてしまった。人が住まなくなって起きたことだから、人が住み生活が行われれば解決にむかう。狼に頼らなくても、特別な対策をとらなくても、「人びとが生活する」紀伊半島の山村をつくればいい。そこに考えが及ばず、そのための手立てをとらない政治は、もはや政治とはいえない。

(写真、人びとが消えた山村に放置されている廃校)

 




# by hara-yasuhisa | 2018-06-02 18:16 | Comments(0)

遠い熊野

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いま、熊野古道を歩く欧米の男女が多い。



熊野の神や仏は、女性はもちろんどんな人でも受け入れてきた。南紀州の山の中にいまはもう苔むしているが、尼寺の址が多いのは女性を排除しなかった熊野信仰のあかしだ。



行けども行けども、山また山。古くから「熊野三千六百峰」と言われ、温く、雨の多い気候は森を育て、険しい谷や急峻な斜面は滝をつくり川の流れを生み出した。自然が幾千年かけて創りだしたこの地を、人びとはいつの頃からか神が宿る地として信仰の対象とした。



11~12世紀にかけて法皇(出家した天皇)や上皇(元天皇)の参詣が相次いだために、半ば国家の行事のようになったようだ。後白河院はほぼ1年に1回のペースで34回、後鳥羽院は10ヶ月に1回のペースで28回、これが参拝回数の記録保持者だ。

考えてみると、あの時代に遠く都からやってくるんだから半端ではない。



 そうまでして熊野にやってくるにはそれなりのわけがあったのだろう。熊野詣(くまのもうで)は流行になり、女院や一般の貴族にも広がりみんな競うように参詣をくり返した。「回数が多いほど救われる」と修験者たちが説いてまわったからだ。



ただ、法皇や女院の参詣には世話をする者や警護の者などで大人数になった。受け入れる地元の村びとの負担は相当なもので、1118年の白河院の参詣では人足814人、伝馬185頭とされ、これに要する食料などのほとんどが地元で調達された。



鎌倉時代には、北条政子の2回の参詣が記録に残されている。それ以後は、皇族に代わり武士の参詣が盛んになったという。「蟻の熊野詣」などと言われだしたのもこの頃からである。



人びとはなぜ熊野をめざしたのか。それは浄土への憧れであり、熊野を現実の浄土と思う信仰だ。熊野とは奥まった遠いところという意味で、そこに至る熊野古道はいまも奥深い森の神秘のなかにある。






# by hara-yasuhisa | 2018-05-23 20:59 | Comments(0)


折ふしのうた


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