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ハノイ(ha noi) にて

 
 はじめての海外ひとり旅、ハノイに行った理由はふたつだった。
 ひとつは、『戦争の悲しみ』の作者、バオ・ニン(bao ninh)に逢うため。逢えれば、リアリズム論を話したかった。
 もうひとつは、社会主義をめざして独自の国づくりをすすめているベトナムの首都、そこに生きる市井の人たちと接し、話したかった。

 そのふたつを実現できた。不安とスリルの連続する旅だったが、やはり旅はひとりがいい。ぼくが今回ハノイで得たもの、それはとても大きなものだった。
 これが異文化というものなんだろうと、ハノイの街で体験したことを、忘れないうちに書きとめておくことにする。

22年ぶりの飛行機
 
 VietnamAirlines(ベトナムエアーライン)の飛行機はさほど大きくない飛行機だが、考えてみると96年の正月に沖縄に飛んで以来の飛行機だから、22年ぶりだ。座席は前後も左右も狭すぎ、窮屈このうえない。

 それにしても、実際に搭乗するまでの手続きの煩雑なこと。関空のロビーは人びとの群れでごった返していたが、知り合いとてだれもいず、いったいどこで何をしていいのかが分からない。
 「ぼくは、これから、どこでどんな手続きをすればいいのか」と、制服(何の制服かは分からない)を着た女性に尋ねた。女性は丁寧に教えてくれた。ここは日本語で通じた。まあ、あとのことになるが、ハノイでは大変だった。

孤高の作家、バオ・ニン

 バオ・ニンについて少しふれておこう。
 小説『戦争の悲しみ』が日本語に翻訳され、それを読んだときにすぐ思ったことが、この作者にぜひ逢いたいということだった。いまから20年前のことだ。

 それまで、ぼくの中でリアリズム文学の最高傑作は、ショーロホフのあの『静かなドン』だった。いつかショーロホフに逢いに行こうと、そのときもそう思った。しかし、彼はその後、スターリンの弾圧下で心ならずもリアリズムの立場を捨ててしまった。そうして、比較的早くにこの世を去った。

 ベトナム戦争が激しく戦われていた1969年、バオ・ニンは高校を出て北ベトナム正規軍に入隊する。彼が17歳のときだ。
 そして、彼が所属する500人の師団は、ベトナム中部高原のジャングルでアメリカとの激烈な戦闘に巻き込まれた。この地獄の戦闘で生き残ったは、彼を含むわずか10人だった。まだ若いバオ・ニンは490人の仲間の命が次つぎにつぶされてゆくのを目の当たりにしたという。
 
ハノイ(ha noi) にて_e0258208_21553109.jpg
 ハノイの郊外、高層住宅の7階にバオ・ニンの住まいはあった。通訳のフォンさんが、「バオ・ニンさんはベトナムではとっても有名、すごく有名な人。普通は会えない人です。どうして自宅に来いというのか私には分からない。緊張してうまく通訳できないかも。原さん、難しいことばを使わないでね」と、そんなことをくり返しタクシーのなかで言うのだった。

 奥さんが玄関のドアを開けてくれた。応接間に招き入れられてしばらくすると、隣の部屋のドアが開き、白髪のバオ・ニンが現れた。ぼくが笑顔で「こんにちは」というと、彼は両手を広げ、差し出したぼくの手を強く握って揺さぶった。
 歳はぼくよりひとつ下だが、顔には深いしわがある。彼の体には銃弾の痕がいくつもあるはずだ。あのベトナム戦争を戦いぬいてきた歴戦の人を目の前にして、深い感慨がぼくを包んだ。


 あの日、1975年4月30日の早朝、彼の部隊(北ベトナム正規軍)はタンソニュット空港での銃撃戦を突破して、サイゴン(いまのホーチミン)市内へと流れ込んだ。その生々しい一部始終が小説には描かれている。

 ぼくは、なぜ日本からあなたに逢いに来たのかを話した。フォンさんの通訳をじっと聞きながら、バオ・ニンはときおり笑みを浮かべたりした。

 ぼくは、「ぼくとあなたとは歳がひとつしか違わないが、同じアメリカ帝国主義とのたたかいでも、あなたはジャングルの中で生死の賭けた戦争をしていた。そしてあの4月30日、あのサイゴンにいた。あの日、ぼくはテレビのニュースを見ながら気がつくと涙が溢れだしていた。あなたはその後、『戦争の悲しみ』を書き、世界中が注目した。それを読んだぼくが一番に感じたのは、ショーロホフを超える作品が出てきたということだった。それを思うと夜も眠れなかった。だから、なにも話せなくてもいい、あなたに逢ってそのささくれだった手を握るだけでいいと思っていた。その20年来の願いがいま実現した」と、そう彼に言った。

 聞き終えると、彼はまた僕に握手を求めて手を差し出してきた。フォンさんは時間をかけて通訳していた。奥さんが持ってきたお茶をすすめながら、彼は話をはじめた。

 「わたしはいまベトナム作家協会の仕事をしているが、協会には必要なときに出向くだけで、毎日ここで執筆している。海外からの招きもあるので年に1・2度は出かけている。日本には2回行った。広島や京都にまた行きたいと思っている」

 「わたしのものだけでなく、他のベトナムの作品も読んでほしい。そうすれば、いまのベトナムのことがよく分かると思う。戦争の時代には戦争の時代の文学があったが、いまは新しい時代を書かないといけない」

 こんな話から彼との対話がはじまったのだが、通訳を介しての話のやりとりだから時間はすぐに過ぎていった。一時間ほど過ぎ、ぼくはお土産を持ってきたと、和歌山県の日本酒を差し出した。開けて見てくださいというと、彼はその場で包み紙を破り日本酒を取り出して笑みを浮かべた。そうして、「クァモン、クァモン(ありがとう)」を連発した。大の日本酒ファンらしく、目を細めて手にとって瓶を眺めていた。

 別れ際、彼はエレベーターまでぼくとフォンさんを見送ってくれた。ぼくらは最後の握手を交わした。

イェンさんのおかげ

 実は、彼と逢うにあたっては、そのために奔走してくれた陰の人物がいる。バオ・ニンは僕が思っているほど簡単に会える人物ではなかった。「孤高の作家」とベトナムの文学界で呼ばれていること、それをぼくも知らないわけではなかった。なかなか人とは会いたがらないことで有名らしい。その彼を説得してくれたのは、ハノイから遠く、南のホーチミン市で暮らしているイェンさんという女性だ。知り合いなど誰もいないぼくに、フォンさんという通訳を紹介してくれたのもイェンさんだ。

 イェンさんとは偶然ネットで知り合った。
 通訳を探してネットを見ていて彼女のサイトに行きあたった。やっと見つけた、とにかくメールをしなくっちゃと、ぼくは急いで依頼の内容を書き送った。ところが、よくよく見ると、住所がホーチミン市とある。あ、これはアカンわ。遠すぎるわと思い、お詫びのメールを入れようとしていた、その矢先に、イェンさんからの返信があった。

 わたしが行きたいが遠くて費用もかさむので、ハノイに住んでいる友だちに原さんの依頼内容を伝えたら、彼女がやってもいいと引き受けたと、そう書かれていた。
 あとで、フォンさんから教えられたことだが、イェンさんはハノイにあるベトナム作家協会に電話をして、バオ・ニンの携帯番号を聞き出してくれた。しかし、かけてもかけても、なかなか電話がつながらなかったという。そうして、やっとのことで話ができ、ぼくとの面談をセットするところまで交渉してくれたのだった。ただただ感謝である。

ハノイの社会主義

 にぎわっている、などという言葉ではいい表せないほどのにぎわいである。
ハノイ(ha noi) にて_e0258208_13083100.jpg

 いったいどこからこれだけのおびただしい人びとの群れが出てくるのか、とにかく若い人びとで活気に満ち満ちている。それをフォンさんにいうと、彼女は、東京の方が人が多いでしょうと反論した。

 ぼくは、東京に来れば分かるよ。人は多いかもしれないけどこんな活気はない。道行く人たちは黙って歩いている。それにここはどうだ、バイクの人も、歩いてる人も、通りに座っている人たちも(通りに腰かけて食べたり飲んだりしている市民の多いこと)、みんな口々に何かを喋っている。ハノイ中どこへ行ったもそうだと、ぼくは彼女にいった。

 すると彼女は、これが当たり前だから、別におかしくはない。ホーさま(ホーチミン)はいつも、国民は心をひとつにしなければいけないと、言っていたらしい。両親からいつもそう聞かされて育った。
 「悪いひとはいないのか」と聞くと、「たまにはいるけどね。ヤクザもいないよ。ハノイで犯罪がおきることはほとんどないよ」という。

 社会主義をめざしているベトナムをどう思うかを聞いてみた。「難しいことは分からないけど、ベトナムが好きだ。けど、日本と比べるとぜんぶ遅れているから、ぜひ日本に行ってみたい。東京の街を歩いてみたい。ホーさまやホーさまの仲間(政府の人びと)がやっていることは信頼している」と、フォンさん。

 彼女の話では、日本語を学ぶ子どもがうんと増えている。韓国語も人気がある。日本と韓国はブームになっているという。
 「原さんは中国が好きか?」と聞いてきた。ぼくは、特別好きではないし特別嫌いでもない」というと、彼女は「私は嫌いだ」という。訳を聞くと、態度がでかいし騒がしいからだという。

 ホーチミン廟の広場でトイレに行きたいとフォンさんにいうと、あそこだと指さしてくれた。そこに行き入ろうとすると、横の事務所の窓から女性が顔を出して何か言ってきた。よくよく聞いているとお金を要求しているのだ。あ、そうだ、公衆トイレは有料なんだと気づいた。フォンさんをふり返ると、財布をもって走ってくるところで、入ってくださいと手ぶりで合図する。

 トイレの個室に入ると、「えっ、紙がないやんか」と、つい声に出してしまった。紙がない。また事務所にもどって、「no paper」というと、窓口の女性はそこにあるよと指をさす。見ると、箱の中に無造作に紙が置かれている。

 用を終え、フォンさんに紙のことをいうと、笑いながら「ゴメンゴメン、言うの忘れた」という。ベトナムでは公衆トイレは有料らしく、それにお尻を拭いた紙をそのまま水に流してはいけない。便器の横に入れ物があって、そこに入れておくのだという。これにはなんとも驚いた。時空を超えて、平安時代の宮中にもどったような風情で、まことに面白かった。

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(通訳をしてくれたフォンさん)

 ちゃんと当局に言って、観光客がいっぱい来るホーチミン廟の公衆トイレくらいはお金や紙のことで観光客を悩まさないようにしてよ、そう注文をつけた。彼女は笑って首をすくめた。

 当局といえば、中国には自由がないという話になり、ベトナムでも中国と似たところがあるという。「えっ、ベトナムにも自由がないの?」と聞き返すと、彼女はうなずいた。当局の悪口を言ったら目をつけられるから、あまり言えないという。これはほんとに意外な話だったが、彼女は少しも不満に思っていない、どうってことないという様子だった。

 そういえば、バスの中で偶然目が会った青年男性に、「ベトナムに初めて来た」と話しかけると、彼は次のようなことを言った。
 「ベトナムは社会主義の国です。だけど、まだ経済がうまく発展していません。日本は急激に経済が伸びた国(手でジェスチャーをしながら)ですが、ベトナムはまだまだです。おカネをかけて大学を卒業してもなかなか仕事がないです。(外を指差しながら)あんな風にバイクの運転手でもしないと生きてゆけない。みんな日本や韓国にいけば仕事があって、高い給料がもらえると考えて、それで日本に行きたがるんです。もっと社会主義の経済が伸びればいいんだけどね」と、彼はこれを日本語で言った。なかなかの高学歴という感じだった。

 ぼくが、「まだ社会主義をめざしている段階ですね」というと、彼は「そうですね」と答えた。彼は観光関係の会社で働いているとのことだった。

 街を歩いていると、いろんな公園や広場に銅像が立っていた。ある公園に大きなレーニンの銅像があったのでフォンさんに「あれはだれですか?」というと、「レーニンです」と即答した。
 ホーチミン廟で、ホーチミンが使っていた部屋の壁に二人の男性の顔写真が飾ってあった。ぼくが「ここにもレーニンがいた」というと、フォンさんは「左の人は知らないなあ」という。「えっ、知らないの?」と聞き返すと、知らないという。「あれがマルクスだよ」というと、「マ・ル・ク・ス」とフォンさんはいった。彼女はレーニンは知っていたが、マルクスは知らない様子だった。


フォンさん
 
 最初の日、ホテルのロビーになかなかフォンさんはやってこなかった。それで、
today's my guide named Phuong comes to meet me soon, tell her if she comes here, i'm sitting overe there と、ぼくはフロントの女性に少し離れた食堂のテーブルを指さして言った。
 だけど、この英語が通じなかった。彼女は i don't know English と言って、手を横に振った。旅の間、こんな片言の英語のやりとりばかりで、いま思えば笑ってしまう。が、そのときは必死だった。

 そうかと思えば、これもこのホテルでのことだが、where is the restroom? と、通りがかった知らない女性に言い、日本語で「また分かりませんて言われるんかんあ」とつぶやくと、「あそこを曲がったところです」と日本語で返ってきた。「日本語がお上手ですね」というと、わたし日本人ですから、と。もう11年もハノイにいて、ホテルの地下でバーを経営しているのだという。

 ハノイは治安がとてもいいと現地の男性にいうと、彼は「ハノイにマフィアはいないよ。最大のマフィアは警察だ。とにかく賄賂を要求するからな。賄賂さえ出せばたいていのことは許してくれる。だから、ここの警察官は賄賂で裕福なんだ」と真面目な顔で言った。

 フォンさんに真偽のほどを確かめると、それはみんな知っていることだと教えてくれた。そんなことでいいのかというと、それで丸く治まるんだからいいんだと。「わたしも無免許でバイクに乗って捕まったけど、いつもそれで解決した」と、涼しい顔をしている。この大らかさ、ベトナムの顔、ベトナムの匂いの社会主義の国づくりがそこにあった。
 
 長くなった。
 まだまだ面白い、また書きにくいこともたくさんあるのだが、この辺りで終えよう。フォンさん、イェンさん、バオ・ニンさん、ホテルの人たち、バーのママさん、バスの男性・・・多彩な人たちと出逢い、知り合いになった。みんな素晴らしい仲間だと心から思った。

 最後の別れの夜、フォンさんは目に涙をためていた。不覚にもぼくの目から涙がこぼれた。ホテルのロビー、彼女は急にぼくをハグし、耳元で言った。「また来てくださいね。こんどはイェンさんと3人で会いましょう」
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     (ハノイっ子の憩いの場・ホアンキエム湖)







by hara-yasuhisa | 2018-11-30 19:29


折ふしのうた


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